2011年2月5日土曜日

研究者と小説家

今日は、久しぶりにゆっくりと家で過ごしているので、ブログの更新。

修士論文もとりあえず書き終えて、ちょっと研究とは関係のない本も少し読み始めようと思い、図書館から本を借りてきました。
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』2007年、文藝春秋 (←入院の結果こんな表記)
村上春樹氏のエッセイです。小説も好きですが、村上氏のエッセイが好きでほとんど読んでます。

タイトルのとおり、村上氏の走ることについてのエッセイです。

自分も、中学校まで陸上をやっていたので、走ることは嫌いじゃありません。
しかし、もっぱら短距離や幅跳びが主で、長距離は苦手&嫌いでした。

これは性格に起因するもので、いま振り返ってみても、人生短距離の連続をつなぎ合わせて生きてきたようなものです。
論文を書くときも、やはり短い集中をつなぎ合わせて書いていったと思います。

でも、こういうやり方&性格が研究職に向くかどうかというと、▲だと思うんですよね。
コツコツ、地道に理論を練り上げていくことのできる性格じゃないと、破綻するような。。。

んで、村上氏のエッセイなんだけど
走ることと、小説を書くことについて述べている部分が、走ることと研究者に必要なことに置き換えても成り立つような気がしたので、ちょっと長いが引用してみます。

P110~
長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体は多分頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書き上げることは、むしろ肉体労働に近い。
中略
実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事ではないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生み出し、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける-そのような作業は、一般的に考えられているよりも遙かに大量のエネルギーを、長期間にわたって必要とする。
身体こそ実際に動かしはしないものの、まさに骨身を削るような労働が、身体の中でダイナミックに展開されているのだ。
中略
P113~
僕自身については語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎日走ることから学んできた。自然に、フィジカルに。そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どのくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家になったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。

ちょっと長い引用でしたが、小説の部分を論文に置き換えたとしても十分通じると思いました。

実際、自分が修論を書いているときも、考えをまとめるとき、内容が煮詰まったとき、どんどん書き進めることができたときは必ず体を動かしていました。
それは、散歩をすることもあったり、長距離を走ることもあったし、プールへ行き長い時間泳ぐこともあった。

村上氏の文章を読んで、すごく納得した。
何か文章を書くというのは、メンタルな部分とフィジカルな部分が密接に関係していたことを。

自分は、長距離を走ることは苦手だけど、嫌いじゃない。
短い距離でも繋ぐことで、長い道のりを進むことができるのではないか。もう少し、自分のスタイルと付き合いながら人生を送ってみようと思う。

村上春樹も始めから小説家になりたかったわけではない。ある日突然、ビールを呑みながら外野席で野球を見ているときに啓示を受けたのだから。

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