2011年11月27日日曜日

男が料理すべきたったひとつの理由

現代社会は、最適選択社会である。ちなみに、最適選択社会という言葉は自分が勝手に考えたので、検索しても出てきません。 生活する上で、常に我々は選択を迫られます。 例えば、自分にもっとも適した携帯電話のプラン(プランSかプランMかそれともプランLか)。 例えば、お昼ご飯のお弁当を何にするか(唐揚げ弁当か、日替わり弁当か)。 これらはほんの一例で、様々な場面で我々は選択を繰り返しています。 しかし、その選択というのは企業や社会に設定された物を選ぶに過ぎません。あらかじめ決められた基準や数量の中からその時の状況に応じて、もっとも適していると思われる選択を行っています。 お昼ご飯をコンビニやお弁当屋さんから購入した場合。その日の胃の状態やその時の気分に応じてお弁当の種類を選びますが、選ぶのは種類であってご飯の量やおかずの中身についての選択肢は、極めて限定的になります。 唐揚げは食べたいけど、5個もいらないな-。と思っても、基本的には5個入りの「唐揚げ弁当」を買って「あーやっぱり多かったなー」なんて思いながらも全て食べることになります。 このように、様々な選択肢があるようにみえて、実は限定された選択肢の中から最適と思われるものを選び、若干の齟齬があったとしても「まぁ良し」としながら暮らしています。 そりゃそうだ!と思うかもしれないけれど、規定された選択を繰り返すのみでは、ひとに備わっている創造的な部分がだんだん衰えていくのではないでしょうか。 誰かに用意された物を選ぶだけ、というのもつまらない気がします。 そこで、タイトルに戻るのですが「料理」をすることで失われた創造力を取り戻すことができるのです♪ 「料理を作る」という行為を分解してみると 1 何を食べたいか考える 2 何を作るか決める 3 家にある食材や調味料を思い出し、足りない物を購入 4 今日食べたい分量を考え、作る量を決める 5 段取りを考え、調理する 6 仕上がりの味を想像しながら、味付けしていく 7 食す 8 片付ける 1,2はお弁当を買う時とだいたい同じですが、その後の行程が全く変ってきます。 特に、必要な材料の購入などや調理の過程では、作る分量や味をイメージしながら行うことで脳の色々な部分を使う事になります。 感覚やイメージを司るといわれている右脳は、料理ではよく使うと思います。 料理を作って、食べるところでクライマックスを迎えます。 その後、めんどくさいですが片付けを行う時間。この時間は、今日の料理の味を思い出して「今度はもっと味を薄くしよう」とか「あ、スパイスを入れ忘れた」や「んー、今度は彼女に作ってあげよう!」などと少なからず内省しながら行うと思います。 このように料理を行うことで、選択の繰り返しに終始する日常から、簡単に創造的な時間へ切り替えるきっかけになります。 おっくうになる後片付けも、段取りを考えることで料理を作りながら順番に洗い物をするなど工夫一つで、脳の活性化(普段考えないことを考えることで)にもなります。 時間があるとき料理することで、ストレスの解消にもなります。 既婚の男性は、「凝った高い食材を買う」「片付けをやらない」「台所(レンジ周りなど)を汚す」などをやってしまうと、奥様に嫌がられますからご注意を(自分の経験上)。

2011年11月22日火曜日

インターネットの普及に思うこと

久しぶりの更新にビックリするとともに、自分が書いてきた内容をちらりとみて、へー俺ってこんなこと考えたりしてたんだ!とまたまたビックリ。

最近は、ネットトラブル削減に向けての施策提案書を提出した関係で、パソコンやインターネットについて考えることが多かったので、とりとめなく雑感をまとめてみます。

 学生時代とインターネット
パソコンというと、自分が高校3年生の時Windows95が発売され、秋葉原に並ぶ人々をテレビで見たのが記憶に残っています。
もっと遡ると、中学生の時にWindows3.1がリリースされ、新しもの好きの先生が職員室のパソコンに入れていました。
しかし、学校のコンピューター教室のパソコンはたしかMS-Dosで動いていました。 
新しもの好きの先生は、LOGOというプログラミング言語を僕と友人に教えてくれました。
あとから知ったことなんだけど、LOGOという言語はシーモア・パパート博士によって開発された言語で、ジャン・ピアジェの構成主義に基づいた新しい学習の在り方として作られたそうです。

ということは、中学生の時に「構成主義に基づくコンピュータプログラミング言語を利用した教育」を受けたことになるのかな?笑

パパート博士の取組みは、専門外なのでよく分りませんが教育工学の分野ではその名前をたまに見かけます。
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/07/post_1538.html

構成主義に基づく新しい学習から特に大きな影響を受けたという気はしませんが(おいおい!)、中学生の僕は受験勉強そっちのけで放課後LOGO言語を使ったプログラミングで遊んでいました。
あまりに毎日やっていたので、先生がなんかのコンテストに出すと言い出して、友達と協力して一つのプログラムを完成させました。
今でも良く覚えているのですが、コンセプトが「これから訪れるGUI時代に適応するためのマウス操作習得の為のソフト」
まぁ、単なるハエ叩きゲームなんですけどね。

ハエが飛んでくる、マウスのポインタがハエ叩きになっていてハエに合わせて、バシッ! はい1点!
小さく早いハエが飛んでくる、バシっ! はい5点!
いやー、単純。笑

特に時代を感じるのが、「これから訪れるGUI時代」という部分
GUI(グラフィカルユーザーインターフェイス)を改めてIT辞典で調べてみると
ユーザに対する情報の表示にグラフィックを多用し、大半の基礎的な操作をマウスなどのポインティングデバイスによって行うことができるユーザインターフェースのこと。

ということで、DOSからWindowsに切り替わっていく時代のちょうど分かれ目であったことがわかります。
マウス使ってソフト起動なんて、今の時代当たり前すぎてなんのこっちゃって感じですね。

ちなみに、そのハエ叩きゲームでなんらかの賞をもらいました。w
受験の直前に表彰式があったのですが、開催地が遠く行けませんでした。
後から、盾をもらったな-。

あー、懐かしい~。
なんて思っていたら、どんどん話がずれてしまった!

で、その後再びパソコンと出会うのが大学生の時。

大学のパソコン教室が、学生に開放されていて使えるのを知って遊び始めた時代。
当時1997年は、まだまだパソコンも普及率が低くレポートもほとんどの学生がワープロで作成していました(ちなみに自分はNECの文豪を使ってました。”文豪”って凄い名前だね)。

Yahooを普通にヤッホーと言っている人もいたし、自分の家でインターネットができるなんていう人は周りに一人もいませんでした。

しかし、この環境が本当に良かったと2013年の今思います。

”リア充”なんて言葉も当然無く、リアルが全てでした。
僕が大学生になった1996年は、インターネットは創生期からまだ数年しかたっていません。
世界初のブラウザの登場が、1991年に登場した”World Wide Web”で1994年にリリースされたmosaic(モザイク、モゼイク)で初めて画像を扱えるブラウザとなった。当時mosaicの普及率は9割だったそうです。

その後、1995年にマイクロソフトがMosicのライセンスを引き継ぎ、エクスプローラーを開発しWindowsに同梱することで、一気にブラウザとしてのエクスプローラーを普及させることになりました。

大学生だった僕は、大学のコンピューターを使ってやっていたことといえば、インターネット麻雀♪
麻雀自体はルールを軽く知っている程度で、何が面白かったかといえばチャットをしながら麻雀を打てることでした。
これは、今まで経験したことのないことでした。
見ず知らずの人と会話をしながらコンピューターで麻雀を打つ!
麻雀相手が、福岡県の看護婦さんで「今、夜勤明けで眠れないからちょっと打ってから寝ようかなー」なんてこともありましたし、仕事中のサラリーマンだったり。
麻雀以外でも、掲示板型のチャットなども使ってみましたが、そこでの人間模様などは全く未知の世界でした。

でも、すぐ飽きました。

その世界はあくまで”架空”であり、大学生の僕にとっては「明日の講義はいくつ出なければいけないか。いくつ休んでも大丈夫か」「今週末の合コンには何を着ていくか」などが重要であり、いつまでもパソコンの前にいるわけにはいかなかった。

何かを調べなければいけないときも、ネットで調べるなんてまずしなかった。
だって、検索したってろくなサイトがなかったから。
調べ物は図書館、もしくは人に聞くがデフォルト。
特に特定の情報を知っている人を知っている事が重要で、きちんと授業のノートを取っている人やかわいい女の子を合コンに連れてくる人を知っていることが重要でした。

インターネットが今ほど整備されていなかったおかげで、学生時代にきちんと実世界を認識することができたと思う。
まさに世界はひとつだった。


天文学者であり、コンピューターシステムの管理者としてハッカーを追跡しFBIやCIAと渡り合ったクリフォードストールさんは、
『コンピュータが子供たちをダメにする』という著書のなかで、いかにコンピュータが子ども教育や学習に悪い影響を与えているか、ということを訴えています。



彼自身、コンピュータは大好きな道具でありその機能も十分理解した上で、それでも子どもの教育には悪影響しかないと述べています。
シーモア・パパート博士の名前も出し、痛烈に批判していますしコンピュータを利用した学習スタイルを進める教育工学も批判しています。

分りやすいグラフィカルな映像を用いた数学の授業や、コンピューターを利用してものごとを調べることで身につく力は非常に薄っぺらであり、本当の思考力等が身につかないと彼はいいます。

僕もこのような考えに賛同し次のように思います。

「インターネットで身につく知識等は、お菓子やファーストフードと同じ」口当たりはよくても、栄養は乏しく、過度に長期的な摂取は体に不調をもたらす。
本当に栄養が豊富で、身になるキチンとした食事と同じものは、本物に触れることであり、苦労して情報を探し、自分の頭で考えることだと思います。

誰も知らない、誰もみたことがない、そういうことを想像し創造し、人類を社会を一歩前へ前進させることのできる人を育てることが教育のひとつの到達点だとするならば、安易な学びの環境よりも本質を捉える教育の在り方を模索しなければいけないのではないだろうか。

振り子のようにその価値が振れる教育ですが、いずれにしても本質的な学びに関する”問”を学校現場でも持ち続けることが大切だと思う今日この頃でした。

相変わらずの、脱線しまくりのとりとめのない文書になってしまいました。
まぁ、最初にとりとめもなく書きますっていっているからいいか 笑










クリフォード・ストール著『カッコウはコンピューターに卵を産む』は、僕が中学・高校時代に出版されとても面白かった本です。
研究所の課金プログラムに1セントの誤差が生じていることを発見した著者が、ハッカーに進入されていることに気づき、追跡していくという実話を元にした著書で、今でこそよく聞く”トロイの木馬”などの話が20年も前の本にすでに登場しています。
今、もう一度読み返したい本のひとつです。

2011年4月7日木曜日

子育てにおけるリスクとコミュニケーション

子育てをしてみると色んなことを学びます。



ネット的に言うと、僕は「危険厨」奥さんは「安全厨」です。わからない人は、ちょっとググってみてください。

危険厨の僕も、我が子が男の子だから、危ない事をやらせないわけじゃない!
むしろ、男の子らしくたくましく育って欲しいと思っている。しかし、子どもというのは観察していてよくわかるんだけど、物理的な法則も因果関係もまーったく分かっていないわけで、ぼっこを握るとブンブン、ブンブン、ブンブン振り回す(笑)
ほんと、ちょっとの加減で目に刺さりそうになる。
雑誌の付録でついてきた厚紙のおもちゃ。まぁ、なんてことない印刷された厚紙なんだけど、ブンブン振り回す!
これまた、目をかすめる。ほんと小さい子どもは、反射機能も未発達で、目の前に物がきてもなかなか目を閉じない。

奥さんの方は安全厨のため、大抵のことは大丈夫だと思っている。
赤ちゃん向けの雑誌の付録が、危ないわけがない。ちゃんと検証しているはずだ!
いちいち、危ない危ないって言ってたら、何もできないし、そういう風に危険を回避しすぎるのは、子どもにとってもよくない!
という思想が根底にある。

ここで、お互いの考え方に大きなズレが生じます。
しかし、このズレは夫婦間では当たり前と言うか、こういう価値観の相違をどうやって調整していくかというのが、結婚生活の大きなテーマであり、本当に勉強になると思います。
ケンカにもなりますが、、、

子どもの安全の話では、お互いの「安全」に対する価値観の相違からくる問題です。
どこまでのリスクを共有するかという問題とも言えます。

危ない、危なくない。の二元論からの脱却がリスクの考えだといえる。

確率論的な話になるとおもうんだけど、極めて低い確率を恐れる事はないけれども、リスクが不確定な事は排除したいと僕は思っています。

例えば、奥さんは飛行機が苦手で、なぜ苦手かと聞くと落ちるかもしれないからと言う。
一方で、子どもが振り回す厚紙が、目に飛び込んで怪我をするという考えにはならない。

ここが、理解できないポイントになるんだなー。

飛行機は、一定の実績があり、車の事故で死亡するよりもずっと低い確率で運行されている。
しかし、うちの子はまったくの不確定要素で、怪我をしないための安全制御もまったく持たないまま、活動している。

お互いの、認識の違いはしょうがないので、次にどうするかというと、どこまでのリスクをお互いが許容できるか話し合うしかない。

もちろん、危険厨からの発言が多くなる。

「あれって危なくねー?」
「どこが?」

コミュニケーションは、根気が必要です。

「いやー。紙といえども、これ硬いし目に入ったら危なくないか?」
「、、、そういうことも、あるかもしれないね。」

あまり納得してもらえなくても、認識してもらうことは大切です。
そういうリスクがあるという考えをもってもらう。
でも、お互い満足するレベルに達するには、パワーポイント使ってお互い、家の中でプレゼンをしなければいけないくらいの気合が必要だと思います。

そうならないのは、夫婦というのはある程度相手の思考パターンを学習していくからなんだろうね。

でも、相手の学習に依存することなく、積極的にコミュニケーションを行うことは、よりよい夫婦生活、子育て、家族関係に重要な事だと思います。
これは、想像を遥かに超えるもので、体験で学んだ事です。

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2011年3月13日日曜日

地震被災後、学校事務職員ができること

このたびの、東北地方太平洋沖地震で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

一日も早く、復興できることを願うとともに、自分でできることを考えてみました。
私も大きな地震を体験し、その時の経験を少しまとめたいと思います。

地震による子どもへのケアは、学校では先生を中心に行われます。
もちろん、周りの大人全てが子どもへの手厚いケアを行うことが必要ですが、施設設備のケアも学校機能の回復には重要です。

特に、学校事務職員にはその役割が期待されると思います。

まずは、危険箇所の点検が必要です。

校舎まわりに危険物が無いか。
切れている電線が無いか?
外壁が落ちかけている部分が無いか?
落ちかけているガラスが無いか?

校舎の中で危険な場所は、理科薬品を収納している薬品庫です。
薬品台帳を薬品管理の先生と確認し、有害ガス等が発生していないか確認しながら、慎重に点検する必要があります。

他にも、天井の落下、蛍光灯の落下、校舎のつなぎ目が離れているなどが、地震の影響を受けやすいところです。

発生した被害も、必ず復旧復興します!国や県からも災害復興のための予算が措置されます。
被害状況などが書類で求められることもでてきます。
被害状況は、写真で記録しておくことも重要です。実際に補修工事を発注する際や、災害の報告にも使用できます。
地震発生後は、施設設備の回復に作業が集中するし、時間とともに発生状況がわからなくなってきます。様々な記録は、復興の過程で大切になってきます。

校舎や設備の被害状況を記録する際、校舎の図面のコピーをバインダー等に、はさんで持って行くことをお勧めします。
写真も沢山撮ると、どこの部分か後から分からなくなるので、写真を撮るごとに図面へ、番号(写真をとった順に)と、どの方向から撮ったかを矢印で記載しておくと、整理が格段に楽になります。

時間がかかっても、必ず復興できます!
学校は、子どもにとっての重要な生活基盤です。いち早く回復できる事を願っております。

私の経験をまとめたもので、
たいした情報ではなかったかもしれませんが、少しでも誰かのお役に立てる事ができればと思います。

頑張りましょう!

わたなべ


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2011年2月26日土曜日

赤ちゃんは新聞がお好き!

子どもを育てていると、色んな発見があって面白いんだけど、五ヶ月にもなるとおもちゃへの反応も変わってきた



今はこんな感じの、カシャカシャしたおもちゃにハマり中。
ずーっと遊んでる!その姿がまるで、新聞を読んでいるような感じ。
かわいい! 親バカですね

2011年2月23日水曜日

創ってみたいこと

子どもが産まれたら創ってみたかったのが、絵本です。 別に絵心もなければ、そういうトレーニングを受けてたわけではありませんが、子どものために自分で創った絵本を読んであげるって、なーんか良いなーって興味あります。 まぁ、やることは沢山あるのですが、楽しそうなのでそのうちチャレンジしてみます。 子育ては、いくら子を思おうが、子どもは思い通りに受け止めてはくれません。 頭ではわかっていても、実感するとまた違う感じだな~。 子どもは、親のシステムに多くを依存して、カップリングしていることが多いけれども、心的システムはすでに独立しており、閉鎖円環系のシステムを築いているんだね。 BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop

2011年2月21日月曜日

2011年2月20日日曜日

iPhoneからの投稿テストです

iPhoneのアプリが便利で、どんどんパソコンを開かなくなってきています。

このブログの更新は、パソコンから行っていたのですが、今日ついにブログ更新ができるアプリを導入。

アプリ名等は、実験と更新実績が伴ってきたら報告します。

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2011年2月6日日曜日

学割の恩恵(社会人大学院生)

せっかく学費を払って(けっして安くはない)学校に通っているので、学割は有効に利用したいところです。

社会人大学院生にとって、授業が少なくなって(M2以降)学校へ通う回数が減ってくると学生であるという実感が無くなってきます。

そんなとき、学生証を提示して学割を受けると「あー、自分は今学生なんだな~」ってちょっと嬉しい気持ちになります。

といいつつ、あまり学割の恩恵を受けることが田舎に暮らしていると無いのですが、今までで学割を使ったのは

映画、居酒屋、定食屋、そして今日行ってきたのですが、スキー場のリフト券!
通常より数百円ですが安くなりました。

修論が一段落ついて、久しぶりのスキーでしたがやはり体を動かすことは良い!と実感しました。体中の血が循環して、古い血液が汗となり、新しい血液が製造されたような、すっきりとした気持ちになりました。

走ることも良いのですが※(前回の日記)、北海道の冬はなかなか走ることが出来ないので、ウィンタースポーツを改めて(学生時代は、体育会のスキー部でかなり鍛えていた)、始めようと思いました。

あ、学割ですが
パソコンのソフトの購入は、大学院に所属している間に買うことをお勧めします。アカデミックパックで買えるので、かーなりの値引きが期待できます。
あと、大学生協で買えるパソコンも安かった気がします。

せっかくの大学院生としての生活、社会人でも学割が適用になりますので活用してみてはいかがでしょうか。

2011年2月5日土曜日

研究者と小説家

今日は、久しぶりにゆっくりと家で過ごしているので、ブログの更新。

修士論文もとりあえず書き終えて、ちょっと研究とは関係のない本も少し読み始めようと思い、図書館から本を借りてきました。
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』2007年、文藝春秋 (←入院の結果こんな表記)
村上春樹氏のエッセイです。小説も好きですが、村上氏のエッセイが好きでほとんど読んでます。

タイトルのとおり、村上氏の走ることについてのエッセイです。

自分も、中学校まで陸上をやっていたので、走ることは嫌いじゃありません。
しかし、もっぱら短距離や幅跳びが主で、長距離は苦手&嫌いでした。

これは性格に起因するもので、いま振り返ってみても、人生短距離の連続をつなぎ合わせて生きてきたようなものです。
論文を書くときも、やはり短い集中をつなぎ合わせて書いていったと思います。

でも、こういうやり方&性格が研究職に向くかどうかというと、▲だと思うんですよね。
コツコツ、地道に理論を練り上げていくことのできる性格じゃないと、破綻するような。。。

んで、村上氏のエッセイなんだけど
走ることと、小説を書くことについて述べている部分が、走ることと研究者に必要なことに置き換えても成り立つような気がしたので、ちょっと長いが引用してみます。

P110~
長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体は多分頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書き上げることは、むしろ肉体労働に近い。
中略
実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事ではないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生み出し、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける-そのような作業は、一般的に考えられているよりも遙かに大量のエネルギーを、長期間にわたって必要とする。
身体こそ実際に動かしはしないものの、まさに骨身を削るような労働が、身体の中でダイナミックに展開されているのだ。
中略
P113~
僕自身については語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎日走ることから学んできた。自然に、フィジカルに。そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どのくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家になったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。

ちょっと長い引用でしたが、小説の部分を論文に置き換えたとしても十分通じると思いました。

実際、自分が修論を書いているときも、考えをまとめるとき、内容が煮詰まったとき、どんどん書き進めることができたときは必ず体を動かしていました。
それは、散歩をすることもあったり、長距離を走ることもあったし、プールへ行き長い時間泳ぐこともあった。

村上氏の文章を読んで、すごく納得した。
何か文章を書くというのは、メンタルな部分とフィジカルな部分が密接に関係していたことを。

自分は、長距離を走ることは苦手だけど、嫌いじゃない。
短い距離でも繋ぐことで、長い道のりを進むことができるのではないか。もう少し、自分のスタイルと付き合いながら人生を送ってみようと思う。

村上春樹も始めから小説家になりたかったわけではない。ある日突然、ビールを呑みながら外野席で野球を見ているときに啓示を受けたのだから。